昨日につづいて

石橋桂子

2008年09月06日 15:49

 実父の話で恐縮ですが、お付き合い下さい。

もう33年ほど前になりますが、母が脳腫瘍で入院し、1ヶ月ほどで、植物人間になってしまい、父と、私が交代で
24時間体制で付き添った事があります。

あの頃、タダ、母が死んでいくのを見守っていくだけ、という絶望的な毎日で、父と私は感情というものを見失っていたように
思います。
とりわけ夜中に母が高熱を出し、体温を下げるために、なが~い廊下を渡って、氷をとりにいくのですが、その時だけ私はいつも声を出して泣きながら歩きました。
何も出来ず、タダ見守るだけ・・・空しくて、悲しくて、たまりませんでした。

きっと父もそうだったと思います。

あるとき看護婦さんがいつもは『お父さん』とか『おじいちゃん』とか呼びかけていたのに
『テイタロウさん!』に変わっているのにきづきました。(当時、父60歳、私32歳)

訳を尋ねると、やはり夜の廊下での出来事で、ボーっとして歩いていたら、誰かを呼ぶ声。
あたりには誰もいないので、自分のことだと気づいたが、でも『おじいさ-ん』といっている!

はたと立ち止まり『ワシのことですか?・・・ワシには孫が7人いるけど、あんたのおじいさんではない。
ワシの名前は~いしばしていたろう~といいます』と言ったとのこと。

それ以来、父は八戸市民病院、脳外科では『ていたろうさん』と呼ばれ続けました 。
娘の私は、あっぱれ!と思い、そのことをベットの母にもつたえ、笑い合いました(もちろん、私だけ)


母は8年もの長きにわたり、脳軟化症の姑(私の祖母)の看病にあたり、自分はあんな風にはなりたくないので、
もし、自分がなんぴとかもわからなくなったら、治療はやめてくれるようにというのが口癖でした。
つまり『尊厳死』を望んでいたのですが、私たちはむしろ自分たちの思い!で母の望みをかなえることは出来ませんでした。

自分らしく、誇りを持って、生きていきたい!

私は総並べて早死にの家系にあって、いつの頃からかそう思い続けています。